『ミスター・ガラス』見ましたか?
このポスターかっこよくて好きです!コミックの絵も混じっているのがいいですね!
アンブレイカブルもスプリットも好きだったのでとても楽しみにしていたこの作品。
面白かったです!シャマランユニバース遂に完結!ということで、『ミスターガラス』を観て考えたことを書いてみたいと思います。
『クリード Ⅱ』と同じく、フィラデルフェアを舞台にしている話でしたね!
フィラデルフィアに行ってロケ地巡りをしたいです。
ちなみに『42〜世界を変えた男〜』(2013)の中でハリソンフォードが言っていたのですが、フィラデルフィアはギリシャ語で兄弟愛という意味だそうです。
ロッキーはいいけどミスターガラスにはあまり関係ない笑
でもこちらも傑作なので是非観て欲しいです!
シャマランの叫び
話が逸れました、本日はミスター・ガラスです。
サミュエル・L・ジャクソン演じるイライジャは完全にシャマランでしたね!
「善も悪もなかったことにする」「ここまでくるのに19年もかかった」など
彼の映画を見てきた者の胸を打つセリフがたくさん!
"シャマランユニバース"の1作目である『アンブレイカブル』は2000年公開であり、マーベルシネマティックユニバースの1作目である『アイアンマン』は8年後の2008年公開です。
アメコミヒーローは俺が始めたんだ!というシャマランの自負が垣間見えるセリフでした。
ヒーローの不在
しかし同時にイライジャは自分をスーパーヒーローだと認識しています。
ビーストとテロ計画を立てるシーンで、「悪巧みしてるみたいだな」と言うシーン覚えていますか?
完全に悪いことをしているのに全く悪役の自覚がない・・・
ヒーローは人類の救済をすべきであるのにも関わらず、彼は人々のことなどどうでも良いと考えています。力を持つ者だけが特別で、持たぬ者には毛頭興味がないのです。
アメコミの世界が現実のものであるということを証明することが最重要だからですね。
彼の思想は『X-MEN』におけるマグニートと重なりますが、彼はX-MENたちの敵であり、スーパーヴィランとして登場します。
大衆のために立ち上がるのがX-MENであり、だからこそ彼らはヒーローと呼ばれるのです。
この映画のラストで、イライジャは特別な力を持つ者の代表として、いじめられていたり、迫害されていたり、肩身の狭い思いをして生きている人々に、隠れなくていいんだ!俺たちの方が優れているんだ!と訴える訳ですが・・・
彼は抑圧されてきた人々を救う革命家のような描かれ方をしているものの本当にそれでいいのでしょうか?
お母さんも泣いちゃって感動的な感じですよね、
最後の駅のシーンは私も感動しました、3人が手を取り合ってカメラがどんどんクロースアウトしていって、Welcome to Jurassic World!!!みたいな感じで。
でも、マイノリティを抱える幾人かにとっては、イライジャはヒーロー的存在なのかもしれませんが、現実はスーパーパワーの存在を世間に知らしめるために大列車事故を起こして何百人も殺した犯罪者ですよ!
このように考えるとイライジャはどう考えてもスーパーヴィランであり、この映画にはヒーローが存在しないと思うのです。
ヒーローとは何なのか
日本版のこのポスター、“スーパーヒーロー”は、実在するか?と書かれていますが、
私は“スーパーマン”と書くのが正しいのではないかと思います。
というのも、彼らはヒーローじゃないと思うからです。
とは言ってもスーパーマンというとマントの男を想像しちゃうのでそれはそれで困ったことになりますが…
何にせよ考えなければならないのがヒーローとは何なのかということです。
結論から言いますと、ヒーローは1万人の命と1人の命を同じ価値だと考える人であるべきであり、人々を守るために自分自身を犠牲にする人がヒーローだと思うのです。
ここでマーベル作品である『スパイダーマン ホームカミング』におけるヒーロー観を考えてみたいと思います。
ホームカミングパーティー当日、意中の女の子とダンスをする機会を棒に振ってまで、彼はバルチャーを阻止しに行きます。そして戦いの中で逆境に立たされた時、トニースタークの言葉を思い出すのです。「そんな弱いやつにスーツを着る資格はない」と。
そして意を決してバルチャーに立ち向かう訳です。
ここからわかることは、“自分はどうなってもいいから他の人を助けたい”という思いです。
例え好きな女の子に振られても、自分が怪我をしても、もしかしたら死んでしまうかもしれないけれど、それでも人々を守るために自分が持つ力を発揮できる人がヒーローと呼ばれるのです。
ヒーロー映画は、“勇気を出して誰かのために自分にできることをする”というテーマを繰り返し描いているジャンルだと思います。現実世界の私たちは空を飛べるわけでも不死身なわけでもありませんが、本物のヒーローになるための条件として心の問題が描かれているため、もしかしたら私たちもヒーローになれるのかもしれない!という思いを観ている者が抱くことができるのです。それこそがヒーロー映画の意義だと思います。
シャマランの『アンブレイカブル』の場合は、特殊な力を持っていることを知って話が終わります。その力をどう使うかは描かれません。
『ミスターガラス』の場合も、特殊な力を持つ3人はそれぞれのエゴのために力を使います。そして最後には世界中に向けて、力を持つ人々の解放宣言を出す訳ですが、道徳的な説教も、ヒーローとしての在り方も描かれません。
つまり心の問題が抜け落ちているのです。
いくら感動的にマイノリティの苦しみを描いたところで、彼らはエゴのために動く以上ヒーローと呼ばれる資格は無く、マーベルやDCの映画において、エゴのために力を使う人々はヴィランとして描かれるのです。
シャマランの世界
シャマランはマイノリティである優れた人々と、マジョリティである普通の人々との対立を繰り返し描いてきた人です。
普通の人々は自分たちより優れた少数派を恐れ、迫害します。そんな抑圧されてきた者たちに救いを与える映画を作っているのであり、マーベルに代表されるヒーロー映画とは描いている世界が違います。届けたい対象も違うのかもしれません。
シャマランの3人はリベンジとして自分のために戦っていますが、マーベルヒーローはアベンジャーズです。彼らは他人のために戦っているのです。
今まで述べてきたように、『ミスターガラス』の3人はヒーローでは無いと考えます。
しかし適切なヒーロー像であるからいい映画で、そうでなければ悪い映画であると考えているわけではありません。
マーベルが世界中の人々に小さな勇気を持って誰かを助けようと訴えかけるの対し、シャマランは世界中の、自分の周りに馴染めない人々に対し、一人じゃ無いぞと訴えかけているのだと思います。
そのように考えれば色々なマイノリティが様々な形で言及される昨今、シャラマンのような監督が一握りの観客のために物語を作り続けることに意義があるのではないでしょうか。
これからも他の監督とは一味違った映画を撮り続けて欲しいと思います。
長文を読んでいただきありがとうございました。
これから色々と書いていこうと思います。
また遊びにきてください!